ATCQ Lostとふすまの向こうの春

4月ももう半月過ぎようとしている。春の雨が降っている。
なにか言おうとしたのだが、まあいいや。とおもってちょっと時間が経ってしまった。
ときどきそういう気分になってその周期は短く、期間は長くなってきている。

何が原因なのだろうと考えるが、複合的で境目はないので犯人探しはあまり意味の無いことなのである。しかし今回は一つ大きな出来事がずっとのしかかっている。ということがわかったのが今朝である。

先月、昔からよく聞いていたATCQのラッパー、ファイフが闘病の末亡くなってしまったのである。好きなアーティストが増えれば訃報を知ることも多くなるし、年長のロックスターや銃のトラブルが絶えなそうなギャングスタラッパーこれまでもたくさんそういうことはあったのだが、ちょっと今回は違ったのだろう。


あったこともないのだけれどATCQやデラソウルというネイティブ・タンの音楽やそれの血を引いたり影響を与え合っている人達というのは(例えばrootsとかD'angeloとか)一方的に身近に感じていて、そういうものは形はどうあれ音楽という音楽という樹の幹に沿って一緒に歳をとり続けていくものだ、と思っていたのかもしれない。ダニーハザウェイやマービンゲイは自分がどっぷり音楽を聴く頃には既に亡くなっていた。


(あえてかっこいい写真は載せんよ、Phife Dawg...)

そういえばATCQのドキュメント映画で天才肌のQ-tipがショービズの世界でいつも一人でさみしそうな顔をしているのと、マイペースなファイフが闘病生活が大変そうだけど可愛らしい奥さんと寄り添って過ごしているのを見て、ベタだけど人の幸せってなんだろうって色々思うことがあった。Q-tipはますます寂しくなってしまうねえ。


こういうことがあると時折、「何の意味がある?」という気持ちが去来してじわっと心が止まる。ATCQもルーツも初期のアルバム聞くだけで自分は十分だし、その音楽を受けて、世の中こういうやり方もあるんじゃない?というものは既に置くことができたつもりである。

そういうときに井上陽水の言葉が気持ちを楽にしてくれる。
「(作曲も)ふすま張りの一部にすぎない」
そう、淡々とした作業。それぐらいがいい。

実生活でも「それ何の意味がある」という気持ちがよく去来するが「ふすま張りである」と自答するとすこし楽になる。

酒飲んで爆音で音楽聞いてチクショー、で翌々日ぐらいには通常運転を再開できるならましだが、ときどき気づかないうちにゆっくり止まってしまうからちょっと困る。



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ファイフのラップで特筆しておきたいのはこの曲、
BugginOutの最初のバースの入り方。


たいていのラップはビートの一拍目のキックからはいるのが普通だけど、
前の小節の2拍目のスネアから"yo! microphone check 1,2..."と駆け込んでくるのがカッコよかった。